泡沫のユメ

どこからでも読める金太郎飴みたいな短編小説書いていきます

花うらら

禁断の恋。

それは甘くてちょっとスパイシーな響き。だけどその一言で片付けられないほどの思いが詰まっている。そんな恋を、まさか自分が経験するなんて思いもしなかった。

 

その人の朝は早かった。学校の校門が開く午前7時、勤勉な性格なのかそんな時間から既に職員室にいるらしい。そうなると必然と私の朝も早くなる。あんなに早起きが辛かったというのに睡魔はどこへやら、タイマーのアラームが鳴る前に起きることすら度々あるほどだ。7時半を少しまわったころ、私が教室に着くとドアが…開かない。どうやら一番乗りのようだ。いつも私が教室に着くのは2番目か3番目なのだが、最近はなぜだか閉まっていることが多い。職員室へ鍵を取りに行くことにも慣れてきたので、失礼しますと声をかけて当たり前のように職員室へ足を踏み込んだ。

 

「おっと、今はテスト1週間前なので生徒は立ち入り禁止ですよ」

 

 近くの机に座っていた、顔だけは見たことのある40代くらいの男性の先生から静止の声が入る。テスト1週間前から終了までの間は問題文や回答を盗み見られることのないよう、生徒は職員室に入ってはいけない決まりだった。私―—浦田は小さい声で、あ、と呟いて足を止めた。

 

「すみません、1週間前って忘れてました…」

「コラ。テスト期間を覚えてないなんて余裕ですね?…まあそれはさておき、誰かに用事ですか?それとも鍵?」

「あ、3年3組の鍵をもらいにきたんです」

 

3年3組ですね、そう言って先生は教室の鍵を取ってきて、テスト頑張るんですよと言いながら渡してくれた。それをありがとうございますと伝え退室する、ただそれだけの出会いだった。この3年間その先生の授業を受けたことはなく、全く関わりがなかっただけに、この出会いを特になんとも思わなかった。ただ冗談を言うようなフランクな人だな、と思う程度。退室のときに立花先生、と呼ばれてさっきの先生が返事をするのが背中越しに聞こえた。

それからというもの、 朝早くから職員室入り口付近に座っている先生と、一番乗りで教室の鍵を取りに来るようになった生徒というのは、もちろん毎日ではないが自然と話をする機会が増えるようになった。テストの点どうだったとか、先生の机にある写真の子可愛いですねとかほんのささいなことを数分話すくらいだが、友達数人の狭いネットワーク内で過ごしている浦田にとっては中々嬉しいものである。話をしているうちに、立花先生がとても温和な雰囲気で、誰にでも平等に接する、生徒からも信頼の厚い人であることがわかり、少しだけ惹かれていた。それでも、浦田にとっては先生のうちの一人としか思っていなかった。いつからだったろう、会えば話すという知り合いレベルの先生が、気になる存在に格上げされたのは。

 

「立花先生、奥さんにお土産?」

 「仲良しなんですね!いいなー!」

 

2泊3日の修学旅行での最後の自由時間で、お土産屋さんに寄って家族に何か買って帰ろうと思ったら女子のきゃぴきゃぴした声が聞こえてきた。立花先生は誰にでも優しく接することから特に生徒に人気で、どこへ行くにも誰かしらついてまわっている。

なんだろう、この胸のざわめきは。持っていた箱詰めのクッキーのパッケージ裏に書いてある文字をずっと見ているのに、全く頭に入ってこなかった。今頭で処理している情報はクッキーとは別のところにある。

 

「先生、こっちのチョコレート人気ナンバーワンらしいですよ!試食したらめちゃくちゃ美味しかったし」

「ちょっと何であんたが先生のお土産選んでんのー」

「あはは、本当に食いしん坊よね。ねえねえ、先生のオススメはなんですかぁ?」

 

私の方が先生と仲良いのに。

 

そう脳裏に一瞬よぎった。

ん?

いやいや待て待て、今何を考えた?何それ嫉妬?おかしいでしょ。先生は私のものでもとりまく女子たちのものでもないというのに、ましてや結婚して子どもまでいるというのに、何を彼女みたいなことを思ったんだ。これじゃあ先生のことが好きみたいじゃんか。そんなことあるわけがない、そりゃ優しくて話してると楽しくて顔もそんな悪くないけど、年の差ありすぎだし、結婚してるし、こっちは未成年かつ教え子なんだし問題がありすぎる。たぶん、あれだ。勘違い。朝イチで教室の鍵を取りに行ったときに一つ二つ話をしているのが、私だけにしてくれている、私だからしてくれているんだって勘違いしてしまっただけなんじゃないの。だからこれが恋慕なわけがない、ただの思い上がりだ。いや、そもそも異性とほぼ関わったことがない私が恋なんて、恋(笑)なんだけど。

 

「浦田さんたち、早くしないと帰りのバス乗り遅れますよー」

 

少しも慌てている様子を感じさせずに立花先生は笑う。そういえば修学旅行に来ているんだった。その修学旅行ももう学校へ帰る時間となった。楽しい3日間は終わり、私たちは受験あるいは就職活動に向けて本格的に動き始めなければならない。つまり、通常の授業に加え受験用の授業漬けになるということ。立花先生の授業を受けることすらできない私は、きっとこのまま卒業まで先生とろくに話せないまま終わるんだろう。1年もしないうちに先生とさよならだと思った途端、寂しいな、と思った。仮に卒後私が地方へ行くことになったとしても、相手に家庭があるとしても、ただの元教え子Dとしてでいいから、また会いたいと思った。またこの笑顔を見たい。何でもない世間話をしていたい。恋人以上にならなくていいから、せめてこの繋がりを絶ちたくない。

 

「浦田、バス出るって。あれ、さっきもそのクッキー見てなかった?買うの?…浦田?」

 

クッキー箱を持ってじっとしている私を訝しんで、友達の石井が横からのぞきこんできた。石井とだって3月にはサヨナラするんだ。今のように毎日会えるわけではないものの、会う回数が減るだけで一生の別れじゃない。でも先生は。私が卒後会いに来たとしても、大勢のOGの一人でしかない。いずれは忘れ去られる存在だ。それは痛いほどわかっている、わかっている、のに。いやいつまでこうしてじっと考え込んでいるんだ。いい加減諦めるしかないと認めようか。

いつの間にか始まっていた恋が告白する隙もなく終わっていたと。

石井に向き直って私は微笑んだ。

 

「石井、私失恋しちゃった」