泡沫のユメ

どこからでも読める金太郎飴みたいな短編小説書いていきます

桃源郷記

鏡の向こうには、鬼の世界がある。

決して合わせ鏡にしてはいけないよ。

鬼に食べられてしまうからね。

 

私たちの住んでいる世界には、昔から鬼にまつわる恐ろしい言い伝えがあった。

鏡の向こうには鬼がうじゃうじゃいる世界があって、見つかれば玩具のように弄ばれて食べられてしまうというものだ。それが怖くて小さい頃は恐る恐る鏡を覗いていたが、鏡を普通に使っていれば何の害もないとわかると平凡なものだった。

鬼なんて言い伝え。

そう思って笑っていたこともあった。

 

鬼のいる世界(一般的には鬼ヶ島と呼ばれている。島というのは単に言いやすいだけであって、たぶん本当に島ではない…と思う)には、私たちの住む世界にはない未知なる物質でできたものがたくさん眠っている。私たちはその未知の物体をお宝と呼んでいた。お宝は金銭になるものもあれば、生活で役立つものなど様々であった。鬼がそのお宝のことをどう認識しているのかは全くの不明。鬼にとってもお宝なのか、あるいはその辺にあるガラクタなのか。鬼と意思疎通なんぞできないのだから、わからないのは当然ともいえる。

そのお宝を売ることで生計をたてているトレジャーハンターが存在するようだが、自分より巨大で獰猛である鬼に見つかれば私たちはなす術もなく食べられてしまう。危ない橋を渡ってお宝を得るよりは、普通の生活をしている方がはるかに安全だというのに、どうしてわざわざ茨の道を進むのだろう。最近までそうぼんやり考えていた。

いつからか、私たちの世界に飢えた鬼が迷い込んで人々に襲いかかる事件が増えていた。鬼がこちらの世界に一度きてしまえば、出口はあちらですお帰りくださいとはいかない。戦って勝つしかない。もちろん一般市民にそんな力はないので、何か対抗策を練ったり鬼の習性や生態を調べたり、時には戦うのが私ユメユの、いや私たちの仕事だった。

 

ほとんどの人は一生のうちに鬼に会うことはない。会うのは好奇心旺盛で鬼ヶ島に足を突っ込もうとする者、トレジャーハンター、そして私たち研究者ぐらいだ。鬼ヶ島へ行くには条件があるので、怖いもの見たさでその条件を満たそうとしなければそうそうお目にかかることはない。

かくいう私も、鬼を見たのは一度だけだ。研究所に入社して間もないころ、研究所で捕らえた鬼に対して実験する様子を見た。ついでにいうと急激に気分が悪くなって倒れてしまったのだが。つまり入社していなければ鬼を見ることもなかった。ああ、思い出しても気持ちが悪い。そんなんで研究者が務まるのか?って自分でも疑問だったけど、そのとき教えてくれた先輩が「僕も最初は同じだったよ。大丈夫、慣れるよ」って笑顔で言ってくれたので大丈夫だと信じている。慣れたくはないけれども。

鬼に対する実験はまだ刺激的なので新入りの私はほとんどしていないが、近々する予定らしい。鬼ヶ島に1回は行かないと色々イメージつきにくいよねって先輩も言っていた。この仕事につくと決めてから腹はくくっているつもりだが、もう一度ぎゅうぎゅうにくくらないといけないのかもしれない。

仕事は大体鬼の生態について勉強したり、推察したり、鬼の身体の一部を隅々まで調べてみたりといったものだ。主に鬼の弱点を探っている。研究者という職種自体は最近できたものなので、まだまだ鬼について知らないことも多いのだとか。

 

「ご飯食べたくない…」

 

私は研究者であるといってもまだ2か月ほどのひよっ子で、今は研修期間でもある。研修は3か月まであって、それまで座学や先輩にくっついて仕事の見学をしたり筋トレやランニングといった基礎体力作りなどをしている。

ようやく昼休みだというのに頭痛で中々身体が休まらない。

 

「ユメユ、しっかり食べないとお昼から頭まわらなくなるよ」

「鬼を見たときのこと考えたらお箸が進まないの」

「考えててもお腹は空かない?」

「ヒナセはタフすぎるんだよ!」

 

同期であり仲の良いヒナセはケタケタと笑った。今までご飯が食べられないことなんてなかったのに、この仕事をしだしてから…いや、鬼を見てからどうにも恐怖心がちらついてダメだった。加えて、午前中に鬼の皮膚を焼いたときのニオイが鼻から離れない。鬼の皮膚がいかに頑強であるかを知るとともに、どういう皮膚構成がされているのかを知るための研修だったが、身体の不調をきたす人は少なからず数人いた(もちろんそのうちの一人は私だ)

一方のヒナセはオンとオフの切替がちゃんとできているというか、食べながらグロテスクな映画を見ることができるくらいだ、既にある程度耐性はついているのだろう。

 

「まあ…あたしはこの仕事が生きがいみたいなもんだから」

 

ヒナセの瞳の色が少し陰りだす。

迷い込んだ鬼の圧倒的な力によって大切な人を失い、研究者を目指すという人が多い。ヒナセは復讐を胸に固く誓って研究所に入ったと以前言っていた。

私はというと「なんとなく」研究者になったと言うと大抵笑われるのであまり口に出さないようにしていた(すでに先輩たちにはひとしきり笑われた後だが)。

 

「1回外の空気吸ってきていい?」

「ん。行ってきなー」

 

この鼻にまとわりつくニオイを取り除くため、一旦席を立つ。同期がせっかく一緒にいてくれているというのに席を離れることに心が痛むが、あっけらかんとした表情で手を振る彼女へ素直に感謝の言葉を述べて外に出た。

 

「すー!はー!」

 

これでもかというくらい深呼吸をする。お昼を食べないことで午後の研修がいかに大変かを以前体験済みなので、何としても食べておきたい私は必死の深呼吸だ。部屋に引きこもってるくせにカロリーを消費するか?なんて声が聞こえてきそうだが、頭と神経を使うのに食事で補わなければ何で補うのだ。家に帰ってからなら遊ぶなり寝るなり気分転換する方法はいくらでもあるが、昼休みという限られた時間内では食べることぐらいしかできない。まあ、無理やり食事を詰め込んでリバースしたことも体験済みだが。

 

「すー!はー!」

 

ふと清涼感のある香りがしたなと思えば、近くに栽培しているらしいハーブを見つけた。解毒作用があるんだったかなんだかで話を聞いた気がするが、正直草なんてどれも一緒に見えて頭に入ってこなかったので名前は不明だ。おかげで鼻に居座っていたイヤなニオイがこのハーブの爽やかな香りに変わったのでとにかく結果オーライだった。

 

「写真とっとこ!テストに出たらマズイし、後でヒナセに聞こうっと」

 

ポケットから携帯を取り出し写真を撮ろうとして、何かが光を反射していることに気付く。目をこらすとハーブの後ろに隠れるようにガラスの破片が落ちていた。おそらくこの付近で窓でも割れたのだろう、一かけのガラス片しか残っていないところを見ると大方片付けられているようだった。ハーブに隠れて見つけにくくなっているので見落としたのかもしれないな。気分が良くなってきたお礼にそのガラス片を取ろうかと手を伸ばした。

そのとき、雷のように目を開けていられないほどの光が一瞬辺りを包んだ。ゴロゴロという音は聞こえないし、そもそも今日は晴天だ。雷なんて鳴るはずがない、一体何事だ?

恐る恐る目を開ける。

景色に特段変化はない。が、先ほどまで太陽の日差しにさらされていたというのに、今の一瞬で何かの影が自分にかかっていた。

背後に何かいる。

嫌な予感がして振り向くと、血走った眼と自分の身長をゆうに超す、鬼が、いた。

 

「っ、」

 

全身の毛が逆立つのを感じたが、声を出すことも動くこともできなかった。呼吸すらまともにできない。

約2,3メートルほどあるであろう鬼は身体を曲げて私の方へ顔を近づけ、にんまりと笑った。

前に鬼を見たと述べたが、それは”研究所内”で”対抗手段を持つ仲間”に囲まれながら”拘束された”ところを見たのであって、今の状況とは全くの別物だ。あの時とは私と鬼との立場が違う。

 

”絶対に合わせ鏡をするな”

 

子どもの頃から、研究者になってからも何千回も言われてきて聞き飽きた言葉だ。合わせ鏡をすることでどういう理論だか分からないが異世界への道が開くらしい。鏡は基本的に家庭に一つ設置することを許可されており、取り外しできないように、持ち歩きしないようにと規律で決められている。不意に合わせ鏡となって異世界へ通じないようにするためだ。仮に合わせ鏡になり異世界へ繋がってしまったとしても、必ず鬼が出てくるとは限らないが、安全性を確保するためには合わせ鏡は避けるのが無難だった。

それが、何故こうなったのか。

鏡なんてどこにもない。あったのはガラス片だし、ガラスなんて自分を映すどころか透けているので鏡の代用になろうはずがない。仮になったとしても、相対する鏡がない。

そもそも鬼は夜行性だ。こんな真昼間、どの鬼も眠っていて真横でどんなに騒いでも起きることはないと聞いたはず。こいつは眠るどころか瞳孔が開いていて、大きく闇がうずまいている瞳の中に、脂汗をだらだらと流している私の顔が映っていた。

眼前に広がる鬼の鋭い眼光、荒くなっていく呼吸、牙の横からからこぼれ落ちる涎。

私は本能的に補食されると悟った。