クリスマス前に変な人に絡まれる話
賑やかな雑踏から扉一つ隔てて、レトロなメロディが流れる喫茶店。その落ち着いた雰囲気の中、テーブルはほぼ満室になっていた。肌寒い季節の夕刻18時すぎ、家族連れやカップルなどが談笑している姿がちらほらと見える。私はエビたっぷりグラタンを一つ注文してから、ふうと一息ついて辺りを見回した。さすがに時間が時間だけあって人が多い。
「(この時期に一人で来るのはまずったな)」
年末の一大イベント、クリスマスを控えたある日。一人でいるのが浮いてしまうほどに、周囲には楽しそうに話している人が大勢いる。大勢の中に自分一人がぽつんといるとどうにも孤立を感じてしまうからいけない。でも見たかった映画を見るチャンスはもう今日しかないのだ。今までにも見る機会はたくさんあったのだが、出かけるのが面倒くさいと理由をつけて先延ばしにしていたのがいけなかった。こんなに一人でいづらい時期に一人で映画を見に来るとはなんの罰だろう。しかも上映まで1時間と少しある。ひまだ。
話し相手もおらず注文したグラタンが来るまで手持ち無沙汰なので、水をすすりながらぼんやりと前を俯きがちに見てみた。客層でいうと幅広く老若男女揃っていたが、ちょうど前のテーブルには夕食を済ませたらしい同年代くらいの男性が紅茶だかコーヒーだかを一人で飲んでいた。もしかしてあの人も一人で来ているのだろうか?まさかの仲間に少しだけ勇気づけられたとともに嬉しくなったそのとき、
「…!」
と、その視線に気付いたのか男性とばっちり目が合う。思わず目をそらし慌てて携帯を触るが、完全に遅かった。
「こんにちは。ご一緒していいですか?」
不意に頭上から降ってきた聞き覚えのない声にフリーズする。もしかして…さっき目が合った人が来た?そう思い目の前のテーブルをちらりと盗み見ると、椅子に座っていたはずの人がいなかった。その代わりに先ほど目が合った男性が、私の向かいの椅子を引いて今にも座ろうとしていた。なんだこれ?ナンパ?
「え、あの」
「え、都合悪いですか?」
「(そう言われるとなんか断りにくい)いやー…そういうわけでは」
「良かった。じゃあ遠慮なくお邪魔するね。あ、俺シャルルって言います」
「はあ…(ちょっとは遠慮しろよ)」
一人でいることに不安や緊張はあったものの、見知らぬ人といるなんてより一層緊張するからイヤだというのに、全くその聞き方はずるい。この人こういうこと慣れてるんじゃないか?その証拠に人懐こそうな笑顔を浮かべて、さらっと敬語を外してくる。やっべえな、まずい人と関わってしまったのかもしれない。
「そんなイヤそうな顔しないでよ」
「そりゃイヤですよ。知らない人急に来たら」
「その知らない人をじろじろ見てたのに?」
「なっ見てないですよ!ヒマだったからなんとなーく前を見たら目に入っただけです、人を変態みたいに言わないでもらえますか!」
そっかごめんごめん、と彼は微笑んだ。一瞬かっこいいと思っていた自分を殴りたい。確かに笑顔は人形みたいに整ってるけどさ。苛立ちに任せてがばがばと水を飲んでいたらもうグラスはほぼ空になってしまった。
「今日はどうしてここに?」
「…聞いてどうするんですか?」
「あはは、警戒心剥き出しだね。別にどうもしないって。せっかくの縁なんだし、ちょっとだけ話付き合ってくれないかな?」
「(めんどくさい。お腹空いた)」
「あ、俺はたまたま仕事が早く終わったから映画でも見ようかなーと思って来ただけでさ。ほら、好きな人と仕事でバディ組んで色んなトラブルを解決するみたいなやつ。CMでよく見ない?」
「(グラタン早くこないかな)」
ビジュアルが良くても馴れ馴れしい性格だとぶち壊しだな、と思いながら聞こえてくる話は右から左へ。近くを通る女性店員が恥じらいながらちらちらとこの面倒くさ野郎を見ているが、絶対にやめとけよ。苦労するぞ、色んな意味で。
「なるほどね。だからお兄さんは好きな人とトラブったから、それを解決するために仕事でバディを組んだと」
「俺の話聞いてた?」
聞いてません。と答える代わりに、視線をずらして窓の外を見ると、木の周りをイルミネーションが華やかに飾っており、人々は寒そうにコートやマフラー、ストールなどに包まれながら身体を縮こまらせていた。中にはミニスカートをはいている女子もいて、見ているだけでも寒くなってきた。
「…お姉さん?」
「(グラタンって焼くの時間かかるしな、時間かかるのはしょうがないけど、早くしてくれないと困るよね、色々)」
「おーい、聞こえてる?お姉さんってばー」
「(あー早くグラタン食べて暖まりたい)」
「あ、注文したやつきたよ」
「グラタンきた!?」
「そこは聞こえてたんだ」
チーズの焼けた香りとともにやってきた店員さんが、熱いのでお気をつけくださいと言いながらあっつあつのグラタンと伝票を置いて去っていった。ついにご飯が食べれる!と思った私はフォーク片手にがっついた。食事中だけは静かだね、と家族や友達から定評のある私が、お向かいさんの話を聞くかどうかなんて結果は決まっていた。
「俺の話どうしたら聞いてくれるかなぁ」
「…(もぐもぐ)」
「それかお姉さんの話が聞きたいんだけど。だめ?」
「…(もぐもぐ)」
「…」
「…」
「もう…わかったよ。 コーヒーブレイクも済んだことだし帰るね」
「ふぁい」
「…ごめんね、急に押しかけて。後でお詫びはさせてもらうよ」
「おあいってなんれふか」
「……食べてるときに話かけた俺が悪かったよ。少しだけど付き合ってくれてありがとうね」
彼はバチッとウインクをしながら(懲りないな)、ここのグラタンは美味しいから味わって食べるんだよと捨て台詞を残して会計へ歩いて行った。 オカンかよ。確かに美味しいけど。
そもそも、なんだか常連のような物言いだな、ということをぼんやりと考えて、フォークを持つ手が止まってしまっていたことに気付く。
「(まあいいか)」
それにしてもかっこ良いなりに変な人だったな。あれはナンパだったのか?寂しがりな人だったのか?自問自答してみても答えなど知るよしもなかった。少し可哀想なことをしたような気もするが、いかんせん関わるのが面倒くさかったので致し方あるまい。
まあ、ちょっと面白い人ではあったけれども。
「お待たせ致しました、プリンアラモードでございます」
グラタンがあと数口で食べ終わるというころという丁度良いタイミングで、店員さんがデザートを持ってきた。いや待て。
「え、頼んでませんよ」
「先ほど男性のお客様から、お詫びにとのことで注文を受けましたので…」
「私の前のところに座ってた人ですか?」
「?はい、そうですよ」
「…」
「ごゆっくりどうぞ~」
ちょっと面白いとかいうのは前言撤回するとしよう。
やっぱりあの人、めんどくさい。
鬼の荒療治
「ああ?何だって?聞こえねーよそんな小さい声じゃあ」
怒鳴るかのような声が辺りに響きわたった。地声が元々低くて大きい彼が声を張ると、空気は一瞬にして張り詰める。周囲の人が一斉にこちらを見いやるが、大事ではないとわかったのか再び各々話しはじめる。私はびくびくして泣きそうになりながら返事を返した。
「ご、ごめん、三ツ原くん」
「ったくよー急に呼び出されて来てみりゃあ、お前は昔っから変わんねぇな。鬼柳って名前に負けてんだよ。もっとどっしり構えとけ。で、さっき何て言ったんだ」
そう言って三ツ原くんは腕を組んで壁にもたれかかった。昼休み、友達と遊んでいる三ツ原くんを呼び止めたとき、それこそ鬼のような形相だったから背筋が凍ったものだけど、なんだかんだ話は聞いてくれるらしい。ありがとう。でもその怖い顔はやめて。
「ずっと前から悩んでることがあって、相談にのってほしいの」
「それはさっき聞いた。その後」
「…えーと、三ツ原くんが知ってるように私って声が小さいでしょ?ほんとは私も嫌なんだよ。授業中先生にあてられても、目の前で落し物をした人に声をかけても、友達を見かけて呼ぶときも聞き取ってもらえなくって。三ツ原くん声大きいし幼馴染でお互いのことよく知ってるから、解決策考えてくれないかなって」
言い終えて恐る恐る彼を見ると、ふーんと言って斜め上を見ていた。眉間の皺は相変わらず深い。
「ど、どうかなー」
「知らん。俺に聞くな」
「え!」
即答ですか!
せめて少しは悩んでほしいところだよ。他人にとっては大したことない、頑張って声出せで終わる悩みかもしれないけど、本当に苦痛だから自分を変えたい。餅は餅屋、声を大きくしたいなら声が大きい人に聞けば、なにかヒントが得られるんじゃないかと思ったんだけど。
あんまり引き下がって三ツ原くんの機嫌を損ねるわけにはいかない。今でも充分不機嫌かもしれないけど。というか貧乏ゆすりしてるから確実に不機嫌だ。これ以上怖くなってはたまらない。せっかくだけど大人しく諦めて別の方法を考えるとしよう。
「わかった。じゃあ別の人に聞いてみるね」
「…おい待て。それで終わりか?」
「?うん、だってあんまり乗り気じゃなさそうだったから」
「他に何か言うことあるだろ」
「(え?え?)聞いてくれてありがとう…?」
さっきまで冷たかった三ツ原くんが急にこっちを向いて突っ込んできた。そういえばお礼を言ってなかったと思ったのでありがとうと言ったのに、呆れたような表情をされた。なんで。
「ごめん、やっぱりわかんない」
「あ?マジで言ってんのか」
「(怖!)う、うん…他に言うことってなにがある…?」
何度頭をひねっても思い浮かばない。相談があるって言って声が小さいことを話したら知らんって言われて、じゃあ他の人に聞く、ありがとう。この流れに何か変なところあった?言い足りないことがあった?
わからないので聞いてみたのに、三ツ原くんはなぜか視線を泳がせた。
「あー…その、なんだ。あれだあれ。カラオケ行くって約束してただろ」
……んっ!!?
「え、なん、カラオケ?約束した?いつ?」
「小さいときだよ。忘れたのかよ」
「いやいやいや忘れたもなにも絶対してないよ!するはずないよ!私声量ないからカラオケ嫌いだもん!しかも小さいときの約束を今!?」
「嫌いだから克服したいって言ってた」
「絶対ウソ!」
「ウソじゃねーし。行くぞ、放課後」
「イヤだ、行きたくない。急になんなの?なんでそんなにカラオケ行きたいの?」
「ばっ…別に俺は行きたくねーよ!俺はただお前の、」
ために。
と、唇が動いた気がしたのは気のせいだろうか。きっと気のせいだ。彼はぼそぼそ話す私のことなんてうとましく思ってるんだろうから。優しさで今こうして付き合ってくれてるだけだから。ただの昔からの幼馴染、として。
「おら。行くぞ。声量ないからカラオケ行かないとか言って逃げてっといつになっても蚊みてぇな声のまんまなんだよ。さっき充分でけぇ声出せてただろ。本気出せばできるんだよ。6時に駅前な、絶対来いよ」
「ちょっ…待っ…!」
そう言って三ツ原くんは鼻歌混じりに立ち去った。
地獄だ。
女も度胸
女は愛嬌、って誰が言い出したんだろう。
そんなものあたしには無縁の言葉だ。何で面白くもないのに笑って媚を売ってご機嫌取りをしなければならないんだろう?無駄に神経を削って疲れるだけだ。それがイヤだからあたしは素直に生きる。仮にそれで距離を置かれたとしても、そこまでの人だったというまで。
そんなことを、目の前で楽しそうに話しながら登校している生徒たちを見て考えていた。
「石井おっはよー!」
ポンと肩を叩かれる。聞きなれたこの声は振り返らなくてもわかる、友達の浦田だ。クールとよく言われるあたしに付き合ってくれる数少ない一人。あたしと違って喜怒哀楽くるくると表情が変わる子だ。正直羨ましいと思う気持ちはあるものの、真似できない。
「おはよう浦田。今日もうるさいね」
「朝からひどいなーもっとテンション上げてこ!」
学校へ向かう前からそんなにテンション高い人いないでしょ、と心の中で突っ込んだ。
1限目はホームルームで、体育祭に誰がどの種目に出場するのかを決める時間だった。先生が黒板に障害物競走、借り物競争、50メートルリレー、四人五脚、綱引きなどの種目を書いておき、この種目に参加したい人、と順番に聞いていくので、皆が次々挙手して決まっていった。そうしてどれもやりたくない人、やりたい種目があったもののじゃんけん負けした人、特に何も考えていなかった人などが残った。その数約5人、あたしもその中に入る。浦田も。
「俺なんでもいーわ」
気だるげに話しているのは、顔が怖い男子として第一印象最悪の三ツ原だ。もちろん顔が怖いだけであって話す分には特に問題はないのだが、一部の人からは恐れられているらしい。
「私も何でもいいよー」
「足遅いからリレー以外ならいいかな」
「僕も余った種目でいいけど、決まらないね。どうしようか」
三ツ原に続いて皆何でもいいと言い出す。あたしだって何でもいい、でもこれだとキリがない。今の段階で残っている種目はリレー3枠、四人五脚2枠となっている。
「三ツ原は運動部で足も速かったよね、だからリレーのアンカーでいい?浦田と鬼柳は走るの苦手だし四人五脚のメンバーとも仲が良いからそっちで。残りがリレーでどう?」
「おー!石井の適当にみえて的確な推理いいねぇ!」
「浦田、推理というか意見ね」
「全然いいよ!ありがとう決めてくれて」
どの種目にしようとうだうだ悩むのがめんどくさかったので、勝ちにいく方向で誰がどれに適しているか考えてみたことを口にしてみたら、案外受け入れてもらえたようだ。じゃあこのまま異論がなければ先生に伝えようと思った矢先。
「リレーはいいけどよ、アンカーは石井がやるんだよな?」
「は?なんで」
「だって俺アンカーばっかしてきてっからたまには他のがやりてーわけ」
「先言ってくれる」
「つーかお前も足速いんだから変われよ」
「無理。先生ー決まりましたー」
「おい!」
あたしと三ツ原との会話に、浦田を筆頭にクラス全体から笑いが起こる。 別にウケを狙ったわけではないんだけど、浦田が笑うと周りも笑う。本当に羨ましいな、この子のこういう性格は。
「ぷっ!石井と三ツ原くんコントみたいだね。ずっと見てたいぐらい」
「浦田は黙っとけ」
「ヒィッごめんなさいごめんなさい」
でもあたしはあたしにあるものを持っていると思うから、自分に満足してる。飄々として悩みがなさそうだって言われるけど、そう言われることにハァ?ふざけんなと思う。実際は人並みにたくさん悩んでいるし、怒るし、涙を流すし、笑いもする。素直に生きてることを楽に感じても、それはそれで大変なことがある。でも今がこんなに楽しいのだから、後悔なんてするわけがなかった。
そうしてあたしは、リレーのアンカーを書く欄にサラッと三ツ原の名前を書いた。後ろから聞こえる怒声は一切無視して。
花うらら
禁断の恋。
それは甘くてちょっとスパイシーな響き。だけどその一言で片付けられないほどの思いが詰まっている。そんな恋を、まさか自分が経験するなんて思いもしなかった。
その人の朝は早かった。学校の校門が開く午前7時、勤勉な性格なのかそんな時間から既に職員室にいるらしい。そうなると必然と私の朝も早くなる。あんなに早起きが辛かったというのに睡魔はどこへやら、タイマーのアラームが鳴る前に起きることすら度々あるほどだ。7時半を少しまわったころ、私が教室に着くとドアが…開かない。どうやら一番乗りのようだ。いつも私が教室に着くのは2番目か3番目なのだが、最近はなぜだか閉まっていることが多い。職員室へ鍵を取りに行くことにも慣れてきたので、失礼しますと声をかけて当たり前のように職員室へ足を踏み込んだ。
「おっと、今はテスト1週間前なので生徒は立ち入り禁止ですよ」
近くの机に座っていた、顔だけは見たことのある40代くらいの男性の先生から静止の声が入る。テスト1週間前から終了までの間は問題文や回答を盗み見られることのないよう、生徒は職員室に入ってはいけない決まりだった。私―—浦田は小さい声で、あ、と呟いて足を止めた。
「すみません、1週間前って忘れてました…」
「コラ。テスト期間を覚えてないなんて余裕ですね?…まあそれはさておき、誰かに用事ですか?それとも鍵?」
「あ、3年3組の鍵をもらいにきたんです」
3年3組ですね、そう言って先生は教室の鍵を取ってきて、テスト頑張るんですよと言いながら渡してくれた。それをありがとうございますと伝え退室する、ただそれだけの出会いだった。この3年間その先生の授業を受けたことはなく、全く関わりがなかっただけに、この出会いを特になんとも思わなかった。ただ冗談を言うようなフランクな人だな、と思う程度。退室のときに立花先生、と呼ばれてさっきの先生が返事をするのが背中越しに聞こえた。
それからというもの、 朝早くから職員室入り口付近に座っている先生と、一番乗りで教室の鍵を取りに来るようになった生徒というのは、もちろん毎日ではないが自然と話をする機会が増えるようになった。テストの点どうだったとか、先生の机にある写真の子可愛いですねとかほんのささいなことを数分話すくらいだが、友達数人の狭いネットワーク内で過ごしている浦田にとっては中々嬉しいものである。話をしているうちに、立花先生がとても温和な雰囲気で、誰にでも平等に接する、生徒からも信頼の厚い人であることがわかり、少しだけ惹かれていた。それでも、浦田にとっては先生のうちの一人としか思っていなかった。いつからだったろう、会えば話すという知り合いレベルの先生が、気になる存在に格上げされたのは。
「立花先生、奥さんにお土産?」
「仲良しなんですね!いいなー!」
2泊3日の修学旅行での最後の自由時間で、お土産屋さんに寄って家族に何か買って帰ろうと思ったら女子のきゃぴきゃぴした声が聞こえてきた。立花先生は誰にでも優しく接することから特に生徒に人気で、どこへ行くにも誰かしらついてまわっている。
なんだろう、この胸のざわめきは。持っていた箱詰めのクッキーのパッケージ裏に書いてある文字をずっと見ているのに、全く頭に入ってこなかった。今頭で処理している情報はクッキーとは別のところにある。
「先生、こっちのチョコレート人気ナンバーワンらしいですよ!試食したらめちゃくちゃ美味しかったし」
「ちょっと何であんたが先生のお土産選んでんのー」
「あはは、本当に食いしん坊よね。ねえねえ、先生のオススメはなんですかぁ?」
私の方が先生と仲良いのに。
そう脳裏に一瞬よぎった。
ん?
いやいや待て待て、今何を考えた?何それ嫉妬?おかしいでしょ。先生は私のものでもとりまく女子たちのものでもないというのに、ましてや結婚して子どもまでいるというのに、何を彼女みたいなことを思ったんだ。これじゃあ先生のことが好きみたいじゃんか。そんなことあるわけがない、そりゃ優しくて話してると楽しくて顔もそんな悪くないけど、年の差ありすぎだし、結婚してるし、こっちは未成年かつ教え子なんだし問題がありすぎる。たぶん、あれだ。勘違い。朝イチで教室の鍵を取りに行ったときに一つ二つ話をしているのが、私だけにしてくれている、私だからしてくれているんだって勘違いしてしまっただけなんじゃないの。だからこれが恋慕なわけがない、ただの思い上がりだ。いや、そもそも異性とほぼ関わったことがない私が恋なんて、恋(笑)なんだけど。
「浦田さんたち、早くしないと帰りのバス乗り遅れますよー」
少しも慌てている様子を感じさせずに立花先生は笑う。そういえば修学旅行に来ているんだった。その修学旅行ももう学校へ帰る時間となった。楽しい3日間は終わり、私たちは受験あるいは就職活動に向けて本格的に動き始めなければならない。つまり、通常の授業に加え受験用の授業漬けになるということ。立花先生の授業を受けることすらできない私は、きっとこのまま卒業まで先生とろくに話せないまま終わるんだろう。1年もしないうちに先生とさよならだと思った途端、寂しいな、と思った。仮に卒後私が地方へ行くことになったとしても、相手に家庭があるとしても、ただの元教え子Dとしてでいいから、また会いたいと思った。またこの笑顔を見たい。何でもない世間話をしていたい。恋人以上にならなくていいから、せめてこの繋がりを絶ちたくない。
「浦田、バス出るって。あれ、さっきもそのクッキー見てなかった?買うの?…浦田?」
クッキー箱を持ってじっとしている私を訝しんで、友達の石井が横からのぞきこんできた。石井とだって3月にはサヨナラするんだ。今のように毎日会えるわけではないものの、会う回数が減るだけで一生の別れじゃない。でも先生は。私が卒後会いに来たとしても、大勢のOGの一人でしかない。いずれは忘れ去られる存在だ。それは痛いほどわかっている、わかっている、のに。いやいつまでこうしてじっと考え込んでいるんだ。いい加減諦めるしかないと認めようか。
いつの間にか始まっていた恋が告白する隙もなく終わっていたと。
石井に向き直って私は微笑んだ。
「石井、私失恋しちゃった」