泡沫のユメ

どこからでも読める金太郎飴みたいな短編小説書いていきます

雨垂れ石井を穿つ

第一印象は特になし。

良いとも悪いともいえない、ごく普通な印象の人がいた。毎朝電車内で見かけるとはいえ、声を交わしたこともないのだからそう思うのは至極当然のことといえる。ただ、毎日のように会っていると愛着でも持ったのだろうか、なんとなく気にかかるようになった。

彼と出会ったのはおそらく数ヶ月前。おそらくというのは、「この日に出会った!」という明確な記憶を持つような出会いを果たしていないからだ。あたしは電車通学をしているため毎朝同じ時間に同じ車両に乗り込むのだが、そこによく見かける若い男性の姿があった。私服だがシャツにジャケットを羽織ったややフォーマルな服装をしており、社会人のようにも、幼い顔だちからして大学生のようにも捉えられた。会っても「そういえばこの人よく見るな」といった程度の感覚なので、特にどうという気持ちはないが、どうやらあたしの使う最寄り駅より前の駅から乗っており、同じ駅で降りるらしいことは数ヶ月かけてわかった。おそらく相手の方はこちらに対して面識なんてあるまい。あたしも面識を持ったのはつい最近だからだ。で?と言われてもそれ以上の言葉は出ない。

…はずだった。

 

ある日、痛いほどの日差しを遮る電車に乗り込むと、相変わらずの人混みにうんざりしつつも、上手い具合に空いている空間に滑り込めた。クーラーの心地良い空気に、ほっと一息をついていると、見覚えのある人が座っていたのが見てとれた。

毎朝毎朝見かける彼の名前はなんなのか、何歳なのか、どこに向かっているのか、どんな声なのか、何一つわかってはいない。恐らく10代後半から20代前半くらいの男性で、柔らかそうで耳にかかるかかからないか程度の長さの茶髪であることしかわからない。でも、見た目にそぐわない大人びた雰囲気が自然と目を引く。

程なくして、席が一つ空いた。よく見るとそこは彼の隣の席で、まるで狙ったような場所を誰も座ろうとしないものだから、あたしは狼狽しながらもそこへ座った。決して隣に座りたいからじゃない、立っていると疲れるから休むためだ。そこまで考えてから、鞄の中から読みかけの文庫本を取り出した。

 

「…すう」

 

寝息のような息遣いが聞こえてきた。そして電車が動きだすのと同時に、左肩に重みがのしかかる。柔らかな髪が首元に触れ、左耳から聞こえる吐息に鳥肌が立つ。

なに、これは… 

 

「…」 

 

耐え切れずに声をかけようとするが、例の男性が体の力を抜いてすやすやと眠るその無防備な顔を見てあたしは考えた。

…彼は、こうして車内で寝てしまうほど、きっとすごく疲れているんだろう。勉強だか仕事だかを夜遅くまでしていたんじゃないだろうか。あるいは、家から学校か職場かが遠くて朝早く起きて帰りは遅い…とか。降りる駅はまだ先なのに、気持ち良さそうに寝ているのに起こすのは野暮というものだ。そんな言い訳を考え、起こさないという答えに辿りついて、手元に視線を落とす。肩が重くて本に全く集中できない。

それにしてもあたしはいつから他人に優しくなったんだっけ?と一つの疑問が脳裏をよぎる。クールだのドライだの友達に言われ続けてきて、確かにそれは自分も思うところなので否定はしないけれど、いつもの自分だったらきっと半ギレでもたれてきた体を押し返したことだろう。なのに、いつからあたしは、他人がもたれることを許せるようになったんだろう。オトナへと一歩成長したってことでいいのかな。

なんて自分に都合のいい考えをめぐらせているうちに、電車は一駅、二駅と過ぎていく。あたしの手はまだ1ページしかめくれていないが、そろそろ目的の駅に到着しようとしていた。

 

「あの」

 

声をかけながら隣で寝ている人の膝をちょいちょいと軽くつつく。ん、と彼の口から小さな声が漏れるが、目を覚ますことなく再び夢の世界へ沈もうとしていた。いやいや、降りるんだってば。あたしも、あんたも。

 

「あの、駅、着きますよ」

 

先ほどより大きめの声をかけながら、膝を強く揺すった。いい加減起きてもらわないと乗り過ごしてしまう。若干焦りながら、頼むから起きてと祈ったところ、大きな瞳と視線が交わった。

 

「え、ああ!?ごめんなさい!ありがとうございます!」 

 

さっきまで寝ていた彼は跳ねるように飛び起き、ジリリリと響く音の中駅に降りた。恐らくごめんなさいはもたれてしまったことに対してで、ありがとうは起こしたことに対してなのだろう。凛とした声、そういう声色なのか、と思ってそのドアをぼんやり眺めていたら、

プシューバタン。

 

「あ」

 

降りるべき駅を乗り過ごしてしまうはめになってしまった。

なんてこった…珍しくミスを犯した自分に対して苛立ちながらも、遅刻確定したわけじゃなし、過ぎたことは仕方がないと心の中で慰めた。一体あたしは何に動揺したんだろう。

あたしは――石井は、次の駅で降りるまでの間、心を落ち着けようと深く椅子に腰掛けた。