泡沫のユメ

どこからでも読める金太郎飴みたいな短編小説書いていきます

花うらら2

 クラスは受験ムードに包まれピリピリとした空気になりつつあった。朝早く登校し遅くまで残る生徒が増えたが、浦田はほどほどに来てほどほどに帰るようになっていた。これまで浦田は、職員室へ教室の鍵を取りに行かなければならないくらい早くに登校していた。というのも、それは同様に朝早くに来ていた立花先生に、鍵を取りに行ったほんの数分ではあるが会えるという下心があってのことだった。自分のクラスには立花先生が担当する授業はないので、会う機会がほとんどない中での数分は貴重だ。

今やクラスメイトが朝早く来るようになったので、それより早く来ようというのなら睡眠時間を削ってまで早朝に起きなければならない上、立花先生が既婚者子持ちだと知ってしまってから会うのが辛くなってしまったので教室へ一番乗りをするのはやめた。会えばどうしても目に入る左手薬指。諦めなければならないとわかっているのに、悲しむべきか喜ぶべきか、そう簡単に諦められる程度の気持ちではなかった。無論相手には何も伝えていないのだから、自分がこうして悶える日々を過ごしていることなど知ることもなく、家族と楽しい生活をしているのだろう。それを考えると複雑な気持ちになる。

それからというもの、月並みではあるが、話題の片思いソングを流しては自分に重ねた。先生を好きになった生徒の体験談をネット検索にかけた。校門前で立花先生が立っていたら、不自然にならないよう注意を払いながら早歩きですり抜けた。職員室も立花先生の机とは遠いドアから入るようになった。

もういっそ忘れてしまえば楽になる。何か夢中になれることをしよう。そうすれば自然と忘れる。

 

「ってそれ受験勉強しかないんだよなぁ…」

 

浦田は大がつくほど勉強がキライで、勉強をしようと机に向き合おうものなら部屋の掃除をはじめるような人物だった。つまり勉強に集中なんてできるわけがない。もちろん受験を控えた今集中しなければならないことは痛い程わかっているが、できれば現実は見たくない。クラスの平均点が下の中くらいだなんて考えたくないのだ。

 

「浦田なに独り言言ってんの、気持ち悪っ」

「石井さん?センチな今そういうこと言うのやめてもらえます?」

 

受験に特化された授業の休憩時間、机に突っ伏している浦田の横で、友達の石井が冷めた目をしていた。以前石井に、受験で忙しい今恋してる場合か!と言われ、してしまったんだからしょうがないじゃないかと答えたときと同じ目だ。

 

「あーもう勉強したくないけどさっきの授業、わかんない問題ばっかりだった~教えて石井~」

「悪いけどあたし別館に教室移動だから行くわ。先生に聞いたら?幸い誰かの質問に答えてるみたいだしまだそこにいるじゃん」

 

また後で、と手のひらを振って石井が教室のドアをガラッと開けた。ちくしょう、私も同じ授業とるんだった!

受験特化の授業は、A教室は1限目は国語で2限目は数学、B教室は1限目理科で2限目国語、というように教室や時間ごとに様々な授業を行う。生徒たちは受けたい授業を自分で考え選び、あちこち教室を移動するのだ。

次が教室移動なのは私もだけど、移動先は隣のクラスだからまだ少し時間に余裕がある。教卓のところで先生に質問していた生徒の話が終わるころを狙って、先ほどわからなかった問題の解説を求むべく先生に話しかける。

 

「せんせー、さっきの最後の問題なんですけど、」

「あっ浦田さんごめんなさい!僕職員室寄って別館に行かないといけないんです。質問は後でもいいですか?」

「そうなんですか!全然いいですよ、ダッシュで行ってください!」

 

急いでいる様子の先生を引き止められるはずもなく、浦田はただ見送ることとなった。先生はハンカチ片手に汗を拭きながら、開いたままのドアから小走りで去ってしまったので、仕方なく自分も教室移動する準備をしようと思ったそのときだった。そのドアから、入れ替わるように別の先生が入ってきた。

 

「良かったら私が答えますよ。どの問題ですか?」

 

その、声は。

 

「た、立花先生…?」

「お久しぶりです、浦田さん」

 

にっこりとキレイに微笑みかけてきたこの人物こそ、浦田が思いを寄せている立花先生だ。彼の指には銀色のリングが輝いていた。すかさず高まる鼓動に、一瞬息ができなくなったのではないかと錯覚する。いや待てこの恋は終わったんだもう忘れるんだ。落ち着いて深呼吸をする浦田を心配して、立花先生が顔をのぞきこみ、大丈夫ですか?と声をかけた。

顔が近い。

 

「だ、大丈夫でひゅッ!」

 

噛んだ。恥ずかしい。

先生の顔を見れないままさっきまで突っ伏していた机につかつかと戻り、教科書や筆箱を鞄に突っ込むと、鞄のチャックを半開きにしたまま教室を出て行った。 周りにいた生徒たちは、浦田の気持ちを知っている者も知らない者もいるのだが、どちらもぽかんと両者を見つめていた。そして浦田は隣の教室の空いている席に適当に座った。久々に先生に会ったからか顔が沸騰したやかんのようだ。赤くなっていないだろうか、それがただひらすら心配になる。もし先生にこの気持ちがバレようものなら、困ったように笑うか呆れられるかするのだろう、きっと。彼がどんな人物かを考えればおそらく前者だろうが、どちらにしても迷惑をかけることには相違ない。

 

「浦田さーん」

 

ひそひそ声のトーンで自分を呼ぶ声が聞こえた。ビクッと肩を揺らして振り返ると、立花先生がドアを少しだけ開けてこちらを呼んでいたのだった。丁度そのドアから近い席にいたので、周囲からの視線はそれほど感じないのが救いだった。

 

「わからない質問をそのままにしておくのはテストを甘く見ているあなたらしいですが、受験においては致命的です。後でちゃんと職員室に質問しに来てくださいね」

 

そう小声で話して、また微笑んだ。それはそれは見惚れてしまうような笑顔で。カラカラと小さな音を立ててドアが閉まる。浦田の思考能力が停止した。後で職員室に来て、って。なんだそれ。

こちらが必死こいて避けていたのを、素知らぬ顔で逃げられないように退路を断たれたような気分だ。

 

「どんな顔して会えばいいのよ…」

 

顔の火照りは、授業が始まってもしばらく収まらなかった。