泡沫のユメ

どこからでも読める金太郎飴みたいな短編小説書いていきます

梅雨入りの夜の夢

自習室で、苦手な数学の問題集をみっちり解いたので、頭がまともに回らない気がする。糖分が欲しい。いつも鞄に忍ばせている一口チョコレートも、昨日で切らしてから買い足していないのを思い出した。

やりたくないオブやりたくない数学の勉強を頑張ったんだから、ご褒美としてアイスクリームでも買おうか。ジュースでもいいし、なんだったら揚げ物にしちゃう?と色々考えるだけでも少しだけ足取りが軽くなった。

さて、帰りにコンビニで何を買おうかな、と迷いつつ自習室を出た矢先、こちら側に向かって歩いている人影が見えた。勉強で疲れた頭がその人物を認識するのに数秒かかる。大きくて中肉中背のシルエット。姿勢。歩き方。その人は私が恋焦がれている人――立花先生だ。立花先生は私のクラスの担任でもなく、担当の授業を受けたこともない、ほとんど関わりのない先生だった。そんな先生を好きになった経緯は省略するとして、彼にはパートナーがいるので、そして私たちは教師と生徒という関係なので、焦がれる思いは無理やり胸の奥に押し込んでいた。封じていた思いがまた蘇らないようここ最近は避けていたので、隠れる場所はないかと辺りを見回すが、なぜか足が言うことを聞かなかった。

「こんばんは」

「…こ、こんばんは」

ぎこちない挨拶をして、軽く頭を下げる。いつものように穏やかな声を聞いて、自然と温かい気持ちになった。さようなら、と言おうとしたが寸前で飲み込む。代わりにはあと息を吐いて、体中の強張りがほぐれたかと思われたそのとき、すれ違った彼がくるりと振り返った。

「そろそろ閉まりますよ?早く帰らないと」

時間的には各部屋の戸締りがされ、消灯されていくときだ。いつも警備員さんが見回りにきており、間もなく自習室にも鍵がかけられるほど遅い時間になっていた。私の胃袋が、待ちかねて音をたてそうだった。

「そうですよね、すぐに帰ります」 

 鞄を持ち直して歩き出すと、先生がにこりと微笑んだ。

「浦田さんは電車ですか?」 

半身だけ振り返っていた先生が、完全に体ごとこちらを向いた。私の動向をじっと見ながら待っている。…もしかしてこれは。

一緒に帰る流れ?

 

ごくり、と唾を飲み込む。私の心臓は飛び跳ねそうなくらい喜んだ。が、理性がすぐその喜びを押し付ける。好意を抱かれていると思うなよ、たまたま帰り道が一緒なだけだろう、と。思う分には自由じゃないかと本能は反抗するが、最終的には理性が勝った。

「そう、です」

思いを断ち切るように早足でロッカーへ向かう。さっさと一人で帰ってしまった方が後々楽だ。一緒に帰ろうものなら、きっと何かを期待してしまう。そして勝手にガッカリするのだ。今まで何度も何度も、期待と落胆を繰り返してきたんだ、もうこりごり。

「おや、急いでます…?」

早足だったことに気付いた先生が、歩みを速めることなく後ろから声をかけてきた。どこか落ち込んでいるように聞こえたのは、私の思い込みだろうか。嘘をつこうか正直に言おうかと悩んで、先生には正直でいたいと思い、とっさに返答してしまった。

「……い、いえ」

「そうですか、良かった。では途中までご一緒しましょう。さすがに夏とはいえもう暗いですからね」

…良かった……?

良かったってなに?

一緒に帰りたかったっていう意味?

勘違いしてしまいそうになる。

 

……ずるい。

そんな言い方をされて断れるわけがないじゃないか。…結局、一緒に帰ることになってしまった。そもそもさっき嘘をついて「はいそうです急いでますではさようなら」と帰るべきだったのに、変に見栄を張ってしまうなんて。

でもこうなっては仕方ない。駅に着いたらさっとお別れしなければ。決意を固めた私は、諦めて歩くペースを合わせた。いや、正しくは合わせてくれた。無意識のうちにゆっくりと歩いていたのを、先生は文句も言わずに同じくゆっくりと歩いてくれていた。

ちらり、と見上げるといつもならあり得ないくらい近くに先生はいた。周りを見ると同じ学校の人はおらず、仕事終わりらしきスーツ姿の人がぽつぽつといる程度だった。

これって、これって!もしかして2人っきりでは!!!?

私の欲望が一瞬で噴火しそうになったが、力強い理性がそれをまたも押し留めた。今なら、きっと、告白しても野次馬に聞かれることなく伝えることができる。そんなバカな考えが頭をよぎった。

だ!か!ら!諦めろ私!今のシチュエーションは夢!駅に着いたら覚める夢だ!こんなことぐらいで浮かれあがってバカか!バカだ!

考えれば考えるほどドツボにはまっていく。

「先生のことが、好きです…」

こんなことを言ったら、先生はどういう反応をするんだろう。困る?喜ぶ?誤魔化す?怒る?諭す?でももう、先生には奥さんとお子さんがいる。私にはその間に割り入って先生一家をめちゃくちゃにすることなんてできない。わかっている。わかっているとも。こんなやましいことを考えているなんて先生はつゆ知らず、何気ない世間話をずっと私に投げかけてくれている。私は先生の横顔をぼんやりと見ながら、適当な返事しかできなかった。

「順調ですか、お勉強は」 

「はい、まあ」

「あれ?ここにコンビニなんてありました?新しくできたのかな」

「そうですね…」

せっかくの会話ですら頭に入ってこないのは、糖分が足りてないわけでも勉強のしすぎでもない。動かない頭の中でぐるぐると考えているのは答えのないものだった。考えても仕方のないこと。それでも考えてしまうのは、隣にいる人のせいだ。

欲望を閉じ込めていた理性が軋みだしていた。

 

先生。

先生は私のことをどう思っていますか?

私に接するときの態度は、他の子たちと違う?同じ?

私の気持ちに気付いてます? 

奥さんとの仲は、今もいいの?

他に好きな人が、できたりしないの? 

私に少しの可能性もない? 

先生。

先生は、

 

悪魔のような考えへと移行していってることを、今は認識すらできなかった。言うとしたら他の誰も聞いていない今がチャンスだ。もしかしたら、これが最初で最後のチャンスになるかもしれない。学校にいれば誰が聞いて、見ているかわからない。帰り道だってまた一緒になれるとは限らない。今しか、ない。

謎の焦りが私を突き動かしていた。なんでこんなに焦っているんだろう?わからない。とにかくこの状態が続くのは駅までの道のり、たった数分しかない。それまでに行動を起こさなければ。早く。

冷や汗が流れた。胸の痛みが強まるのを感じながら、やけにうるさい鼓動を無視して、唇を湿らせて、ついに私は

「せん、」

「あ!すみません、僕はこっち方向の電車なのでここで。勉強、頑張ってくださいね」

 

え。待って。

呆然となっている私をよそに、先生はぺこりとお辞儀をして珍しく足早に去っていく。気付けばいつの間にか駅に着いており、遠くで電車がきたような音がした。おそらく先生が乗る方向の電車が来たのだろう。改札の外で、先生が小さくなっていくのをただただ眺めていた。

私は私の中の悪魔をようやく認識して恥ずかしくなった。

何をやってるんだ私は。受験勉強に励まないといけないのに。今こんなことしてる場合じゃないのに。受験が終わったとしても、私には諦めるしかないというのに。誰も幸せになれない未来を前に、今更何を期待してるんだろう。

怖かった。悪魔がしでかそうとしたことはただならないことだ。今までの関係が壊れかねないことだ。良かったんだ、これで。先生から大切なものを奪うわけにはいかないから、これで良かったんだよ。バカな夢を少しでも見させてもらったんだって笑い話にしよう。友達の石井に話したら、たぶん呆れながら笑ってくれるだろうから。

ぐう、とお腹の虫が鳴いた。コンビニに行き忘れたことを思い出して、余計に空腹感が強まる。電車の発車音らしきものが聞こえた。全身にどっと疲れが出てきて、もうなにも考える気にもなれずに呟いた。

 

「お腹、すいたな…」