桃源郷記
鏡の向こうには、鬼の世界がある。
決して合わせ鏡にしてはいけないよ。
鬼に食べられてしまうからね。
私たちの住んでいる世界には、昔から鬼にまつわる恐ろしい言い伝えがあった。
鏡の向こうには鬼がうじゃうじゃいる世界があって、見つかれば玩具のように弄ばれて食べられてしまうというものだ。それが怖くて小さい頃は恐る恐る鏡を覗いていたが、鏡を普通に使っていれば何の害もないとわかると平凡なものだった。
鬼なんて言い伝え。
そう思って笑っていたこともあった。
鬼のいる世界(一般的には鬼ヶ島と呼ばれている。島というのは単に言いやすいだけであって、たぶん本当に島ではない…と思う)には、私たちの住む世界にはない未知なる物質でできたものがたくさん眠っている。私たちはその未知の物体をお宝と呼んでいた。お宝は金銭になるものもあれば、生活で役立つものなど様々であった。鬼がそのお宝のことをどう認識しているのかは全くの不明。鬼にとってもお宝なのか、あるいはその辺にあるガラクタなのか。鬼と意思疎通なんぞできないのだから、わからないのは当然ともいえる。
そのお宝を売ることで生計をたてているトレジャーハンターが存在するようだが、自分より巨大で獰猛である鬼に見つかれば私たちはなす術もなく食べられてしまう。危ない橋を渡ってお宝を得るよりは、普通の生活をしている方がはるかに安全だというのに、どうしてわざわざ茨の道を進むのだろう。最近までそうぼんやり考えていた。
いつからか、私たちの世界に飢えた鬼が迷い込んで人々に襲いかかる事件が増えていた。鬼がこちらの世界に一度きてしまえば、出口はあちらですお帰りくださいとはいかない。戦って勝つしかない。もちろん一般市民にそんな力はないので、何か対抗策を練ったり鬼の習性や生態を調べたり、時には戦うのが私ユメユの、いや私たちの仕事だった。
ほとんどの人は一生のうちに鬼に会うことはない。会うのは好奇心旺盛で鬼ヶ島に足を突っ込もうとする者、トレジャーハンター、そして私たち研究者ぐらいだ。鬼ヶ島へ行くには条件があるので、怖いもの見たさでその条件を満たそうとしなければそうそうお目にかかることはない。
かくいう私も、鬼を見たのは一度だけだ。研究所に入社して間もないころ、研究所で捕らえた鬼に対して実験する様子を見た。ついでにいうと急激に気分が悪くなって倒れてしまったのだが。つまり入社していなければ鬼を見ることもなかった。ああ、思い出しても気持ちが悪い。そんなんで研究者が務まるのか?って自分でも疑問だったけど、そのとき教えてくれた先輩が「僕も最初は同じだったよ。大丈夫、慣れるよ」って笑顔で言ってくれたので大丈夫だと信じている。慣れたくはないけれども。
鬼に対する実験はまだ刺激的なので新入りの私はほとんどしていないが、近々する予定らしい。鬼ヶ島に1回は行かないと色々イメージつきにくいよねって先輩も言っていた。この仕事につくと決めてから腹はくくっているつもりだが、もう一度ぎゅうぎゅうにくくらないといけないのかもしれない。
仕事は大体鬼の生態について勉強したり、推察したり、鬼の身体の一部を隅々まで調べてみたりといったものだ。主に鬼の弱点を探っている。研究者という職種自体は最近できたものなので、まだまだ鬼について知らないことも多いのだとか。
「ご飯食べたくない…」
私は研究者であるといってもまだ2か月ほどのひよっ子で、今は研修期間でもある。研修は3か月まであって、それまで座学や先輩にくっついて仕事の見学をしたり筋トレやランニングといった基礎体力作りなどをしている。
ようやく昼休みだというのに頭痛で中々身体が休まらない。
「ユメユ、しっかり食べないとお昼から頭まわらなくなるよ」
「鬼を見たときのこと考えたらお箸が進まないの」
「考えててもお腹は空かない?」
「ヒナセはタフすぎるんだよ!」
同期であり仲の良いヒナセはケタケタと笑った。今までご飯が食べられないことなんてなかったのに、この仕事をしだしてから…いや、鬼を見てからどうにも恐怖心がちらついてダメだった。加えて、午前中に鬼の皮膚を焼いたときのニオイが鼻から離れない。鬼の皮膚がいかに頑強であるかを知るとともに、どういう皮膚構成がされているのかを知るための研修だったが、身体の不調をきたす人は少なからず数人いた(もちろんそのうちの一人は私だ)
一方のヒナセはオンとオフの切替がちゃんとできているというか、食べながらグロテスクな映画を見ることができるくらいだ、既にある程度耐性はついているのだろう。
「まあ…あたしはこの仕事が生きがいみたいなもんだから」
ヒナセの瞳の色が少し陰りだす。
迷い込んだ鬼の圧倒的な力によって大切な人を失い、研究者を目指すという人が多い。ヒナセは復讐を胸に固く誓って研究所に入ったと以前言っていた。
私はというと「なんとなく」研究者になったと言うと大抵笑われるのであまり口に出さないようにしていた(すでに先輩たちにはひとしきり笑われた後だが)。
「1回外の空気吸ってきていい?」
「ん。行ってきなー」
この鼻にまとわりつくニオイを取り除くため、一旦席を立つ。同期がせっかく一緒にいてくれているというのに席を離れることに心が痛むが、あっけらかんとした表情で手を振る彼女へ素直に感謝の言葉を述べて外に出た。
「すー!はー!」
これでもかというくらい深呼吸をする。お昼を食べないことで午後の研修がいかに大変かを以前体験済みなので、何としても食べておきたい私は必死の深呼吸だ。部屋に引きこもってるくせにカロリーを消費するか?なんて声が聞こえてきそうだが、頭と神経を使うのに食事で補わなければ何で補うのだ。家に帰ってからなら遊ぶなり寝るなり気分転換する方法はいくらでもあるが、昼休みという限られた時間内では食べることぐらいしかできない。まあ、無理やり食事を詰め込んでリバースしたことも体験済みだが。
「すー!はー!」
ふと清涼感のある香りがしたなと思えば、近くに栽培しているらしいハーブを見つけた。解毒作用があるんだったかなんだかで話を聞いた気がするが、正直草なんてどれも一緒に見えて頭に入ってこなかったので名前は不明だ。おかげで鼻に居座っていたイヤなニオイがこのハーブの爽やかな香りに変わったのでとにかく結果オーライだった。
「写真とっとこ!テストに出たらマズイし、後でヒナセに聞こうっと」
ポケットから携帯を取り出し写真を撮ろうとして、何かが光を反射していることに気付く。目をこらすとハーブの後ろに隠れるようにガラスの破片が落ちていた。おそらくこの付近で窓でも割れたのだろう、一かけのガラス片しか残っていないところを見ると大方片付けられているようだった。ハーブに隠れて見つけにくくなっているので見落としたのかもしれないな。気分が良くなってきたお礼にそのガラス片を取ろうかと手を伸ばした。
そのとき、雷のように目を開けていられないほどの光が一瞬辺りを包んだ。ゴロゴロという音は聞こえないし、そもそも今日は晴天だ。雷なんて鳴るはずがない、一体何事だ?
恐る恐る目を開ける。
景色に特段変化はない。が、先ほどまで太陽の日差しにさらされていたというのに、今の一瞬で何かの影が自分にかかっていた。
背後に何かいる。
嫌な予感がして振り向くと、血走った眼と自分の身長をゆうに超す、鬼が、いた。
「っ、」
全身の毛が逆立つのを感じたが、声を出すことも動くこともできなかった。呼吸すらまともにできない。
約2,3メートルほどあるであろう鬼は身体を曲げて私の方へ顔を近づけ、にんまりと笑った。
前に鬼を見たと述べたが、それは”研究所内”で”対抗手段を持つ仲間”に囲まれながら”拘束された”ところを見たのであって、今の状況とは全くの別物だ。あの時とは私と鬼との立場が違う。
”絶対に合わせ鏡をするな”
子どもの頃から、研究者になってからも何千回も言われてきて聞き飽きた言葉だ。合わせ鏡をすることでどういう理論だか分からないが異世界への道が開くらしい。鏡は基本的に家庭に一つ設置することを許可されており、取り外しできないように、持ち歩きしないようにと規律で決められている。不意に合わせ鏡となって異世界へ通じないようにするためだ。仮に合わせ鏡になり異世界へ繋がってしまったとしても、必ず鬼が出てくるとは限らないが、安全性を確保するためには合わせ鏡は避けるのが無難だった。
それが、何故こうなったのか。
鏡なんてどこにもない。あったのはガラス片だし、ガラスなんて自分を映すどころか透けているので鏡の代用になろうはずがない。仮になったとしても、相対する鏡がない。
そもそも鬼は夜行性だ。こんな真昼間、どの鬼も眠っていて真横でどんなに騒いでも起きることはないと聞いたはず。こいつは眠るどころか瞳孔が開いていて、大きく闇がうずまいている瞳の中に、脂汗をだらだらと流している私の顔が映っていた。
眼前に広がる鬼の鋭い眼光、荒くなっていく呼吸、牙の横からからこぼれ落ちる涎。
私は本能的に補食されると悟った。
あの子の秘密
「ずるいわね~マラソン大会休むなんて」
寒空の下身体を鍛えるという名目で、この時期体育の時間にマラソンをするのはもはや恒例になっていた。そしてその努力の成果を見せろと言わんばかりに、マラソン大会は冬の一大イベントとして毎年行われている。わざわざ冷たい風の中を走るなんて、誰が望むの?と思いつつも、夏に汗だくになりながら走ることを考えたらどっちもどっちだった。
私はというと、白い息を吐きながら走るクラスメイトたちをよそにゴール付近で待機していた。こんな過酷な環境で2周だか3周だか走るのは全くもって意味がわからない。壁にもたれているとはいえ立ちっぱなしは疲れるな、と思いどこか座るところがないかと辺りを見回すと、同じクラスの色白男子が一人近くの段差に座っていたのを見つける。
「清水さんも休んでるじゃない。一緒だよ」
「私はお腹が痛いの。ずるじゃないわ」
「えー?さっきまで鼻歌口ずさんでなかった?」
ウソだあ、と笑う彼―沖は、柔らかい笑みを浮かべていた。沖は普段体育の授業はほとんど見学をしていることから日に焼けていない肌を持ち、話すときは穏やかで、いつもにこにこと笑っている。
こりゃ女子たちがイチコロになるはずだわ。今時こんな優男そうそういないだろう。クラスの内外、時には他校の子たちですら沖が好きと言っているのを聞いたくらいだ。私は親しみを込めて王子と呼んでいる(本当は親しみ半分、からかい半分だけど)
「ま、王子がサボりじゃないことぐらい皆わかってるわよ」
「そうかなあ?だといいんだけど」
汗をかき白い息を吐き出しながら走るクラスメイトのことを考えながら、穏やかな会話をしていることに若干の罪悪感を感じつつ、よく皆ズル休みしないなあ、と思った。全員がズル休みをしたらマラソン大会なんて成立しなくなってしまうんだろうけど、むしろ成立せずに今後一切中止してほしいものだ。
「でも、羨ましいよ。みんな思いっきり運動できて」
冗談を言い合いながら、隣の空気が少しだけ澱んだような気がした。
「まるで運動しないんじゃなくて、できないような言い方ね」
沖がじっとこちらを見て、それからゆっくりと微笑んだ。お返しに私も口角を上げる。わずかに沈黙が流れたが、どちらも言葉を発しようとはしなかった。
「…聞かないんだ?僕がいっつも体育の授業見学してる理由」
「聞いたら答えてくれるの?」
「どうだろうね」
全くずるい言い方をする。まあ、その答えはなんとなく検討がついているけれど。 答え合わせをしないことには、はっきりとはわからないもので。ここではぐらかすということはおそらく答える気はないのだろう。そして、体育を休んでいることに理由はあるのだろう。
知りたい、と思った。
普段彼はにこにこと微笑んでいるばかりで、あまり”我”を出そうとはしない。それがもしかすると今、垣間見えるように感じて胸が高ぶった。
面白そう。穏やかな少年の闇とは一体どんなものなのか。
「まあ…そんな大して面白くない話だから。それよりトップ集団がそろそろくるんじゃない?」
あっさりと話を終わらせて沖は言った。大会が始まってから時間にして約40分。足の早い人であればもうじき見えるころだろう。冷たく動きにくくなった体を温めるべく立ち上がった。
「残念。王子の秘密知りたかったのになー」
言いつつ伸びをして、ゴール地点に向かってゆっくりと歩きだす。マラソン大会を休む私は、代わりにゴールテープを持っておく仕事を任されたのだ。おそらくそれは沖もなのだろう、同じく私の数歩後ろをついてくる。
「清水さんだって秘密くらいあるでしょ」
「そりゃ乙女には秘密の1つや2つあるわよ」
「男にだって1つや2つあるよ」
「王子にはないと思ってたのに…王子は私たちに隠し事なんてしないと思ってたのに!」
「面白い人だなぁ」
先生にゴールテープをもらい、皆が走ってくるルートをぼんやりと見た。まだ人影は見えない。白い息が小さく消えていった。
「え!雪降ってる?」
寒いと思ったら頭上からちらちらと雪が降りそそぐ。雪や雨なら大会は中止になるはずだけど、あと少しで皆がゴールするのなら続行になるだろう。こんな中で立ち尽くすなんてごめんだ。早く建物内へ、せめて屋根のあるところに逃げたい。しかし悲しいかな、周囲は見晴らしが良く屋根になるものがほとんどなかった。
「ほんとだ」
「お腹痛くなってきたから帰る」
本当にお腹が(というか寒すぎて鼻とか耳が)痛くなってきた気がする。
「あ、待って、僕もオナカイタイ…」
「はい仮病」
「そっちこそ」
変に息の合った会話に思わず笑った。王子はどこまでいっても王子なんだから。
「あれ?ゴールテープねぇの?俺1位だよな?」
後ろから疑問の声が上がったので振り向くと、三ツ原は息を切らしながら立っていた。
あ、もう先頭集団きてたの?
雪に翻弄されて三ツ原にも気づかず、ゴールテープも間に合わず、何のためにここにいたんだ私たち。なんだか面白くて笑ってしまった。同じように沖も笑い出して、もう何が何だかわからなかった。今だったら何でも笑ってしまいそうだった。
「何がおかしーんだよお前ら?」
そうやってたずねるぽかんとした顔の三ツ原がまた面白くて、でもこうなった経緯を説明するのはちょっとめんどくさくて。
「ひーみつ!」
と言って私たちは逃げ出した。ここにいたらきっと笑いが止まらない。ゴールテープを持つという仕事もなくなったんだからここにいる理由もない。
残された三ツ原がぽつりとつぶやいた。
「変な奴ら……」
梅雨入りの夜の夢
自習室で、苦手な数学の問題集をみっちり解いたので、頭がまともに回らない気がする。糖分が欲しい。いつも鞄に忍ばせている一口チョコレートも、昨日で切らしてから買い足していないのを思い出した。
やりたくないオブやりたくない数学の勉強を頑張ったんだから、ご褒美としてアイスクリームでも買おうか。ジュースでもいいし、なんだったら揚げ物にしちゃう?と色々考えるだけでも少しだけ足取りが軽くなった。
さて、帰りにコンビニで何を買おうかな、と迷いつつ自習室を出た矢先、こちら側に向かって歩いている人影が見えた。勉強で疲れた頭がその人物を認識するのに数秒かかる。大きくて中肉中背のシルエット。姿勢。歩き方。その人は私が恋焦がれている人――立花先生だ。立花先生は私のクラスの担任でもなく、担当の授業を受けたこともない、ほとんど関わりのない先生だった。そんな先生を好きになった経緯は省略するとして、彼にはパートナーがいるので、そして私たちは教師と生徒という関係なので、焦がれる思いは無理やり胸の奥に押し込んでいた。封じていた思いがまた蘇らないようここ最近は避けていたので、隠れる場所はないかと辺りを見回すが、なぜか足が言うことを聞かなかった。
「こんばんは」
「…こ、こんばんは」
ぎこちない挨拶をして、軽く頭を下げる。いつものように穏やかな声を聞いて、自然と温かい気持ちになった。さようなら、と言おうとしたが寸前で飲み込む。代わりにはあと息を吐いて、体中の強張りがほぐれたかと思われたそのとき、すれ違った彼がくるりと振り返った。
「そろそろ閉まりますよ?早く帰らないと」
時間的には各部屋の戸締りがされ、消灯されていくときだ。いつも警備員さんが見回りにきており、間もなく自習室にも鍵がかけられるほど遅い時間になっていた。私の胃袋が、待ちかねて音をたてそうだった。
「そうですよね、すぐに帰ります」
鞄を持ち直して歩き出すと、先生がにこりと微笑んだ。
「浦田さんは電車ですか?」
半身だけ振り返っていた先生が、完全に体ごとこちらを向いた。私の動向をじっと見ながら待っている。…もしかしてこれは。
一緒に帰る流れ?
ごくり、と唾を飲み込む。私の心臓は飛び跳ねそうなくらい喜んだ。が、理性がすぐその喜びを押し付ける。好意を抱かれていると思うなよ、たまたま帰り道が一緒なだけだろう、と。思う分には自由じゃないかと本能は反抗するが、最終的には理性が勝った。
「そう、です」
思いを断ち切るように早足でロッカーへ向かう。さっさと一人で帰ってしまった方が後々楽だ。一緒に帰ろうものなら、きっと何かを期待してしまう。そして勝手にガッカリするのだ。今まで何度も何度も、期待と落胆を繰り返してきたんだ、もうこりごり。
「おや、急いでます…?」
早足だったことに気付いた先生が、歩みを速めることなく後ろから声をかけてきた。どこか落ち込んでいるように聞こえたのは、私の思い込みだろうか。嘘をつこうか正直に言おうかと悩んで、先生には正直でいたいと思い、とっさに返答してしまった。
「……い、いえ」
「そうですか、良かった。では途中までご一緒しましょう。さすがに夏とはいえもう暗いですからね」
…良かった……?
良かったってなに?
一緒に帰りたかったっていう意味?
勘違いしてしまいそうになる。
……ずるい。
そんな言い方をされて断れるわけがないじゃないか。…結局、一緒に帰ることになってしまった。そもそもさっき嘘をついて「はいそうです急いでますではさようなら」と帰るべきだったのに、変に見栄を張ってしまうなんて。
でもこうなっては仕方ない。駅に着いたらさっとお別れしなければ。決意を固めた私は、諦めて歩くペースを合わせた。いや、正しくは合わせてくれた。無意識のうちにゆっくりと歩いていたのを、先生は文句も言わずに同じくゆっくりと歩いてくれていた。
ちらり、と見上げるといつもならあり得ないくらい近くに先生はいた。周りを見ると同じ学校の人はおらず、仕事終わりらしきスーツ姿の人がぽつぽつといる程度だった。
これって、これって!もしかして2人っきりでは!!!?
私の欲望が一瞬で噴火しそうになったが、力強い理性がそれをまたも押し留めた。今なら、きっと、告白しても野次馬に聞かれることなく伝えることができる。そんなバカな考えが頭をよぎった。
だ!か!ら!諦めろ私!今のシチュエーションは夢!駅に着いたら覚める夢だ!こんなことぐらいで浮かれあがってバカか!バカだ!
考えれば考えるほどドツボにはまっていく。
「先生のことが、好きです…」
こんなことを言ったら、先生はどういう反応をするんだろう。困る?喜ぶ?誤魔化す?怒る?諭す?でももう、先生には奥さんとお子さんがいる。私にはその間に割り入って先生一家をめちゃくちゃにすることなんてできない。わかっている。わかっているとも。こんなやましいことを考えているなんて先生はつゆ知らず、何気ない世間話をずっと私に投げかけてくれている。私は先生の横顔をぼんやりと見ながら、適当な返事しかできなかった。
「順調ですか、お勉強は」
「はい、まあ」
「あれ?ここにコンビニなんてありました?新しくできたのかな」
「そうですね…」
せっかくの会話ですら頭に入ってこないのは、糖分が足りてないわけでも勉強のしすぎでもない。動かない頭の中でぐるぐると考えているのは答えのないものだった。考えても仕方のないこと。それでも考えてしまうのは、隣にいる人のせいだ。
欲望を閉じ込めていた理性が軋みだしていた。
先生。
先生は私のことをどう思っていますか?
私に接するときの態度は、他の子たちと違う?同じ?
私の気持ちに気付いてます?
奥さんとの仲は、今もいいの?
他に好きな人が、できたりしないの?
私に少しの可能性もない?
先生。
先生は、
悪魔のような考えへと移行していってることを、今は認識すらできなかった。言うとしたら他の誰も聞いていない今がチャンスだ。もしかしたら、これが最初で最後のチャンスになるかもしれない。学校にいれば誰が聞いて、見ているかわからない。帰り道だってまた一緒になれるとは限らない。今しか、ない。
謎の焦りが私を突き動かしていた。なんでこんなに焦っているんだろう?わからない。とにかくこの状態が続くのは駅までの道のり、たった数分しかない。それまでに行動を起こさなければ。早く。
冷や汗が流れた。胸の痛みが強まるのを感じながら、やけにうるさい鼓動を無視して、唇を湿らせて、ついに私は
「せん、」
「あ!すみません、僕はこっち方向の電車なのでここで。勉強、頑張ってくださいね」
え。待って。
呆然となっている私をよそに、先生はぺこりとお辞儀をして珍しく足早に去っていく。気付けばいつの間にか駅に着いており、遠くで電車がきたような音がした。おそらく先生が乗る方向の電車が来たのだろう。改札の外で、先生が小さくなっていくのをただただ眺めていた。
私は私の中の悪魔をようやく認識して恥ずかしくなった。
何をやってるんだ私は。受験勉強に励まないといけないのに。今こんなことしてる場合じゃないのに。受験が終わったとしても、私には諦めるしかないというのに。誰も幸せになれない未来を前に、今更何を期待してるんだろう。
怖かった。悪魔がしでかそうとしたことはただならないことだ。今までの関係が壊れかねないことだ。良かったんだ、これで。先生から大切なものを奪うわけにはいかないから、これで良かったんだよ。バカな夢を少しでも見させてもらったんだって笑い話にしよう。友達の石井に話したら、たぶん呆れながら笑ってくれるだろうから。
ぐう、とお腹の虫が鳴いた。コンビニに行き忘れたことを思い出して、余計に空腹感が強まる。電車の発車音らしきものが聞こえた。全身にどっと疲れが出てきて、もうなにも考える気にもなれずに呟いた。
「お腹、すいたな…」
雨垂れ石井を穿つ
第一印象は特になし。
良いとも悪いともいえない、ごく普通な印象の人がいた。毎朝電車内で見かけるとはいえ、声を交わしたこともないのだからそう思うのは至極当然のことといえる。ただ、毎日のように会っていると愛着でも持ったのだろうか、なんとなく気にかかるようになった。
彼と出会ったのはおそらく数ヶ月前。おそらくというのは、「この日に出会った!」という明確な記憶を持つような出会いを果たしていないからだ。あたしは電車通学をしているため毎朝同じ時間に同じ車両に乗り込むのだが、そこによく見かける若い男性の姿があった。私服だがシャツにジャケットを羽織ったややフォーマルな服装をしており、社会人のようにも、幼い顔だちからして大学生のようにも捉えられた。会っても「そういえばこの人よく見るな」といった程度の感覚なので、特にどうという気持ちはないが、どうやらあたしの使う最寄り駅より前の駅から乗っており、同じ駅で降りるらしいことは数ヶ月かけてわかった。おそらく相手の方はこちらに対して面識なんてあるまい。あたしも面識を持ったのはつい最近だからだ。で?と言われてもそれ以上の言葉は出ない。
…はずだった。
ある日、痛いほどの日差しを遮る電車に乗り込むと、相変わらずの人混みにうんざりしつつも、上手い具合に空いている空間に滑り込めた。クーラーの心地良い空気に、ほっと一息をついていると、見覚えのある人が座っていたのが見てとれた。
毎朝毎朝見かける彼の名前はなんなのか、何歳なのか、どこに向かっているのか、どんな声なのか、何一つわかってはいない。恐らく10代後半から20代前半くらいの男性で、柔らかそうで耳にかかるかかからないか程度の長さの茶髪であることしかわからない。でも、見た目にそぐわない大人びた雰囲気が自然と目を引く。
程なくして、席が一つ空いた。よく見るとそこは彼の隣の席で、まるで狙ったような場所を誰も座ろうとしないものだから、あたしは狼狽しながらもそこへ座った。決して隣に座りたいからじゃない、立っていると疲れるから休むためだ。そこまで考えてから、鞄の中から読みかけの文庫本を取り出した。
「…すう」
寝息のような息遣いが聞こえてきた。そして電車が動きだすのと同時に、左肩に重みがのしかかる。柔らかな髪が首元に触れ、左耳から聞こえる吐息に鳥肌が立つ。
なに、これは…
「…」
耐え切れずに声をかけようとするが、例の男性が体の力を抜いてすやすやと眠るその無防備な顔を見てあたしは考えた。
…彼は、こうして車内で寝てしまうほど、きっとすごく疲れているんだろう。勉強だか仕事だかを夜遅くまでしていたんじゃないだろうか。あるいは、家から学校か職場かが遠くて朝早く起きて帰りは遅い…とか。降りる駅はまだ先なのに、気持ち良さそうに寝ているのに起こすのは野暮というものだ。そんな言い訳を考え、起こさないという答えに辿りついて、手元に視線を落とす。肩が重くて本に全く集中できない。
それにしてもあたしはいつから他人に優しくなったんだっけ?と一つの疑問が脳裏をよぎる。クールだのドライだの友達に言われ続けてきて、確かにそれは自分も思うところなので否定はしないけれど、いつもの自分だったらきっと半ギレでもたれてきた体を押し返したことだろう。なのに、いつからあたしは、他人がもたれることを許せるようになったんだろう。オトナへと一歩成長したってことでいいのかな。
なんて自分に都合のいい考えをめぐらせているうちに、電車は一駅、二駅と過ぎていく。あたしの手はまだ1ページしかめくれていないが、そろそろ目的の駅に到着しようとしていた。
「あの」
声をかけながら隣で寝ている人の膝をちょいちょいと軽くつつく。ん、と彼の口から小さな声が漏れるが、目を覚ますことなく再び夢の世界へ沈もうとしていた。いやいや、降りるんだってば。あたしも、あんたも。
「あの、駅、着きますよ」
先ほどより大きめの声をかけながら、膝を強く揺すった。いい加減起きてもらわないと乗り過ごしてしまう。若干焦りながら、頼むから起きてと祈ったところ、大きな瞳と視線が交わった。
「え、ああ!?ごめんなさい!ありがとうございます!」
さっきまで寝ていた彼は跳ねるように飛び起き、ジリリリと響く音の中駅に降りた。恐らくごめんなさいはもたれてしまったことに対してで、ありがとうは起こしたことに対してなのだろう。凛とした声、そういう声色なのか、と思ってそのドアをぼんやり眺めていたら、
プシューバタン。
「あ」
降りるべき駅を乗り過ごしてしまうはめになってしまった。
なんてこった…珍しくミスを犯した自分に対して苛立ちながらも、遅刻確定したわけじゃなし、過ぎたことは仕方がないと心の中で慰めた。一体あたしは何に動揺したんだろう。
あたしは――石井は、次の駅で降りるまでの間、心を落ち着けようと深く椅子に腰掛けた。
先生は神様です
ぼんやりとした意識の中で、誰かが私を呼ぶような声が聞こえた気がした。「…さん、浦田さん!」いったい誰の声だろう。そうやって耳をすませるうちに、全身の感覚がゆっくりと戻ってきた。どうやら私は横になっているらしい。うっすらと目を開けると、見知らぬ人たちが私を囲んでいた。
「あ、起きた!浦田さん、わかりますか?」
「手術無事に終わりましたよ」
「お疲れ様でした」
…手術?
その一言でぱっちり目が覚めた。手術って、なんの?誰、が?私?なんの病気で?というか、ここはどこ?
いまいち状況がわからないまま辺りを見回すと、見たことのないような機械や薬品がずらりと並んでいた。手術って目の前にいる人は言ったけど、私は病気になった覚えはないぞ。それも手術をするような病気だなんて。花粉症しかなったことがない私が手術をするなんてありえない。ただ、そう思いを巡らせつつ体を起こそうと動いた瞬間、ちくりとお腹が痛くなった。服を少しだけめくってお腹を見てみると、そこには縦に数センチの傷があり、それを縫い合わせるかのようにホッチキスの芯のようなものがいくつも刺さっていた。幸い血は出ていない。
まっまじで手術してた!
いったい何の病気でどんな手術でどんなことになって、どれくらいかかったのかなど諸々を片っ端から聞こうとしたところ、手術室と思しき部屋の外へとほっぽり出された。
「じゃ、お部屋まで歩いて帰ってくださいねー」
「え」
看護師らしき人が笑顔でそう言って手を振ると、その人と私の間を阻むようにゆっくりとドアが閉まった。私は急な展開についていけず、ただそれを呆然と見ていることしかできなかった。「え、ちょっと、」と呟く声は誰一人にも届かずに終わる。おいおいまじですか。手術直後だよ私は!送迎みたいなのはないの!という怒りと戸惑いを滲ませながら、はたと重要なことに気付く。
私の部屋って……どこなの。
適当にこっちかと歩いてみたが、一歩進むたびにずっしりとお腹に痛みを感じる。通りすがった人たちも、そうやって這いずるように歩く私をなぜか無視してすたすたと去っていく。ちょっと待てここは病院じゃないのか。誰も助けに来てはくれないのだろうか。数メートル、いや数十メートルは歩いただろうというところで、私はどこに向かっているのかわからなくなってきた。痛みに気がいって思考回路がショートしてしまっているのだ。休みたい、そう思ったとき近くに都合良くテーブルと椅子があったので座ろうとするが、力が入らず椅子を抱え込むようにして倒れこんだ。もう、だめだ。疲れてなにもできる気がしない。誰か助けて…そう思った瞬間、神は私を見捨てなかった、私が好きな先生、立花先生が目の前を通りすぎようとしていた。私が倒れていたのがテーブルで死角になっていたのか、先生はこちらに気付いていない様子だった。
「せ、せんせいっ…!」
「…ん、あれ?浦田さんじゃないですか。大丈夫ですか?そんなとこにしゃがんで。どうかされました?」
「(神様か…)」
「浦田さん?」
「いや、大丈夫じゃないです…お腹痛くって動けなくて…車椅子を持ってきてもらえませんか…」
「車椅子ですか?構いませんが…探してくるので少し離れますね。それまでここで待っているんですよ」
わかりました、と返事する代わりにこくりと頷いた。もはや返事をする力すらなかった。良かった、これで一安心だ。タイミングよくきてくれるなんて、先生はまるで砂漠の中のオアシスだよ…余計先生のこと好きになっちゃう…
でも、なんだか
つかれ た …
「は?手術して倒れそうになったところを立花先生に助けてもらったっていう…夢?」
「そう!しかもやけにリアルなの!夢だったのかなほんとに~あんなに優しくされちゃあ夢でも相変わらず惚れちゃうよ、ふふふひひひ」
「きも」
「ちょっと!?」
色々とあり得ないことが起こっていたが、結局それらはただの夢であり、いくら夢の中の先生の優しさに恍惚としても現実ではなかった。それでも大好きな先生を惚れ直すには、浦田は充分盲目になっていた。
「あっ先生だ」
そんなときに、浦田は遠くで立花先生が歩いているのを目ざとく見つける。
「ちょうどいいじゃん、お礼言ったら」
「いやいやいや、いくら神様みたいなことをしてもらったってあれは夢だからね?」
「だとしても話すきっかけとしていいチャンスじゃないの?今朝こんな夢を見たんです~って話したら?」
「うっ…それもそうだね。石井良いこと言うじゃん」
そう友達の石井に笑いかけてから、いつもの調子で立花先生に駆け寄った。自分よりもだいぶ大きな背中に向けて、とびっきり明るく声をかける。
「神様!」
その不可思議な声かけに、先生どころか周囲の生徒たちまでもが振り返り、その視線に耐えられず浦田が失踪したのは言うまでもなかった。
ミッション1、情報を集めろ
「立花先生」
「はい、なんでしょう」
「先生は好きな人いるんですか?」
「…質問が急ですね」
「…あ、ごめんなさい。見ず知らずの生徒に急にそんな質問をされても困りますよね。あたし石井って言います。3年3組の」
「3年3組?ということは確か私の担当クラスではないですね」
「そうですね、はじめましてですけど、先生が生徒から結構好かれてるって噂はかねがね伺ってます」
「ほう?そんな噂は初耳ですが…」
「だから先生は好きな人いるのかちょっと気になって。単純な好奇心です」
「好きな人、ねえ…まあ、なんと言いますか。そもそも私には妻と子どもがいますから、他に好きな人はいませんね」
「妻子持ちでしたか…」
「ええ。それがなにか?意外でしたか?」
「意外というか、そうだろうなとは思ってました」
「?」
「もう一つ質問したいんですけど…最近、何か感じませんか?学校で違和感みたいなのとか…ありません?」
「違和感ですか?……うーん」
「…」
「特に、ないですね」
「ないですか」
「ないです。…何かあるんですか?」
「いえありません、何も」
「ありませんか」
「はい」
「それなら良いんですが」
「……そう、ですね」
「?」
「先生は浦田って知ってます?」
「ウラタさん?さあ、申し訳ないですが存じ上げませんね」
「あたしの友達なんですけど、温かくて可愛くていい奴なんですよ。だけど友達の少ない寂しい子だから、今度会ったら良くしてやってください」
「面識がないので何とも言えませんけど、先生としては生徒と関わる機会が増えるのは嬉しい限りですよ。きっと良い子なんでしょうね。こちらからよろしくしたいくらいです」
「……浦田が好きになるのもわかりますね。優しいひと」
「え?何か言いました?」
「何でもないです!じゃあ先生、またそのときはよろしくお願いしますね」
「石井、先生となにはなじでだの…」
「何話してたって、あんたが先生に探り入れろって言ったんでしょ。それ以外何もしてないよ、浦田」
「だってぇ…先生と石井が楽しそうにしてるのを見るとこう、もやもやして…2人に嫉妬しちゃう」
「…たまにあんたが可愛いって思うわ」
「可愛かったら物影から先生をガン見したり、先生の後うろちょろしたりしません~」
「大丈夫!先生あんたのこと全く眼中にないから」
「石井さん!?サラッと爆弾発言するのやめませんか!?」
「ま。ちょっと話すぐらいならいいんじゃない」
「他人事だと思ってテキトーなこと言う~~本気だからね私は!」
「はいはい」
花うらら2
クラスは受験ムードに包まれピリピリとした空気になりつつあった。朝早く登校し遅くまで残る生徒が増えたが、浦田はほどほどに来てほどほどに帰るようになっていた。これまで浦田は、職員室へ教室の鍵を取りに行かなければならないくらい早くに登校していた。というのも、それは同様に朝早くに来ていた立花先生に、鍵を取りに行ったほんの数分ではあるが会えるという下心があってのことだった。自分のクラスには立花先生が担当する授業はないので、会う機会がほとんどない中での数分は貴重だ。
今やクラスメイトが朝早く来るようになったので、それより早く来ようというのなら睡眠時間を削ってまで早朝に起きなければならない上、立花先生が既婚者子持ちだと知ってしまってから会うのが辛くなってしまったので教室へ一番乗りをするのはやめた。会えばどうしても目に入る左手薬指。諦めなければならないとわかっているのに、悲しむべきか喜ぶべきか、そう簡単に諦められる程度の気持ちではなかった。無論相手には何も伝えていないのだから、自分がこうして悶える日々を過ごしていることなど知ることもなく、家族と楽しい生活をしているのだろう。それを考えると複雑な気持ちになる。
それからというもの、月並みではあるが、話題の片思いソングを流しては自分に重ねた。先生を好きになった生徒の体験談をネット検索にかけた。校門前で立花先生が立っていたら、不自然にならないよう注意を払いながら早歩きですり抜けた。職員室も立花先生の机とは遠いドアから入るようになった。
もういっそ忘れてしまえば楽になる。何か夢中になれることをしよう。そうすれば自然と忘れる。
「ってそれ受験勉強しかないんだよなぁ…」
浦田は大がつくほど勉強がキライで、勉強をしようと机に向き合おうものなら部屋の掃除をはじめるような人物だった。つまり勉強に集中なんてできるわけがない。もちろん受験を控えた今集中しなければならないことは痛い程わかっているが、できれば現実は見たくない。クラスの平均点が下の中くらいだなんて考えたくないのだ。
「浦田なに独り言言ってんの、気持ち悪っ」
「石井さん?センチな今そういうこと言うのやめてもらえます?」
受験に特化された授業の休憩時間、机に突っ伏している浦田の横で、友達の石井が冷めた目をしていた。以前石井に、受験で忙しい今恋してる場合か!と言われ、してしまったんだからしょうがないじゃないかと答えたときと同じ目だ。
「あーもう勉強したくないけどさっきの授業、わかんない問題ばっかりだった~教えて石井~」
「悪いけどあたし別館に教室移動だから行くわ。先生に聞いたら?幸い誰かの質問に答えてるみたいだしまだそこにいるじゃん」
また後で、と手のひらを振って石井が教室のドアをガラッと開けた。ちくしょう、私も同じ授業とるんだった!
受験特化の授業は、A教室は1限目は国語で2限目は数学、B教室は1限目理科で2限目国語、というように教室や時間ごとに様々な授業を行う。生徒たちは受けたい授業を自分で考え選び、あちこち教室を移動するのだ。
次が教室移動なのは私もだけど、移動先は隣のクラスだからまだ少し時間に余裕がある。教卓のところで先生に質問していた生徒の話が終わるころを狙って、先ほどわからなかった問題の解説を求むべく先生に話しかける。
「せんせー、さっきの最後の問題なんですけど、」
「あっ浦田さんごめんなさい!僕職員室寄って別館に行かないといけないんです。質問は後でもいいですか?」
「そうなんですか!全然いいですよ、ダッシュで行ってください!」
急いでいる様子の先生を引き止められるはずもなく、浦田はただ見送ることとなった。先生はハンカチ片手に汗を拭きながら、開いたままのドアから小走りで去ってしまったので、仕方なく自分も教室移動する準備をしようと思ったそのときだった。そのドアから、入れ替わるように別の先生が入ってきた。
「良かったら私が答えますよ。どの問題ですか?」
その、声は。
「た、立花先生…?」
「お久しぶりです、浦田さん」
にっこりとキレイに微笑みかけてきたこの人物こそ、浦田が思いを寄せている立花先生だ。彼の指には銀色のリングが輝いていた。すかさず高まる鼓動に、一瞬息ができなくなったのではないかと錯覚する。いや待てこの恋は終わったんだもう忘れるんだ。落ち着いて深呼吸をする浦田を心配して、立花先生が顔をのぞきこみ、大丈夫ですか?と声をかけた。
顔が近い。
「だ、大丈夫でひゅッ!」
噛んだ。恥ずかしい。
先生の顔を見れないままさっきまで突っ伏していた机につかつかと戻り、教科書や筆箱を鞄に突っ込むと、鞄のチャックを半開きにしたまま教室を出て行った。 周りにいた生徒たちは、浦田の気持ちを知っている者も知らない者もいるのだが、どちらもぽかんと両者を見つめていた。そして浦田は隣の教室の空いている席に適当に座った。久々に先生に会ったからか顔が沸騰したやかんのようだ。赤くなっていないだろうか、それがただひらすら心配になる。もし先生にこの気持ちがバレようものなら、困ったように笑うか呆れられるかするのだろう、きっと。彼がどんな人物かを考えればおそらく前者だろうが、どちらにしても迷惑をかけることには相違ない。
「浦田さーん」
ひそひそ声のトーンで自分を呼ぶ声が聞こえた。ビクッと肩を揺らして振り返ると、立花先生がドアを少しだけ開けてこちらを呼んでいたのだった。丁度そのドアから近い席にいたので、周囲からの視線はそれほど感じないのが救いだった。
「わからない質問をそのままにしておくのはテストを甘く見ているあなたらしいですが、受験においては致命的です。後でちゃんと職員室に質問しに来てくださいね」
そう小声で話して、また微笑んだ。それはそれは見惚れてしまうような笑顔で。カラカラと小さな音を立ててドアが閉まる。浦田の思考能力が停止した。後で職員室に来て、って。なんだそれ。
こちらが必死こいて避けていたのを、素知らぬ顔で逃げられないように退路を断たれたような気分だ。
「どんな顔して会えばいいのよ…」
顔の火照りは、授業が始まってもしばらく収まらなかった。